2008年12月16日

中東の歴史・まとめ

■ イスラーム過激派とは? 彼等の意識には、イスラーム側から見て、侵略者による理不尽な、イスラエル建国の現実が、抜きがたくあると思います。そのうえに、同胞意識(イスラーム共同体・ウンマ)の強い、厳格な、イスラーム復興主義を唱える彼等には、これまで、アメリカの身勝手な、その場しのぎの外交に、振り回されてきた思いと、何より、イスラームの地を戦場にされ、その悲惨な状況に対する、怒りがあると思います。また、前回に記した、イスラーム社会・文化の破壊を思わせる、欧米文化の流入や、西欧型理念の押し付けなどの不満もあるでしょう。

■ 例えば、アメリカの対イラク戦争当初、戦後処理・占領統治を問われたブッシュ大統領は、戦後日本の占領統治を、成功例として挙げた事があります。日本とイスラーム社会を同様に扱う、こうした、異文化に対する認識は、呆れるほど浅薄です。その裏には、サイードが「オリエンタリズム」で、口をすっぱくして指摘するように、西欧のイスラーム観には、まだまだ根深い偏見が、無意識のうちに働いているのでしょう。こうした認識に基づくかぎり、アメリカの対テロ戦争・外交理念(民主主義の拡大)は、見直しの必要があると思います。

■ 文化とは、人の生き方の、指針とも云えるもので、文化の違いは、人の生き方の違いです。異文化に対し、自らの文化を強制することは、属国とするのと同じことです。強制された、共同体の心理に傷を残し、それは深層に鬱積します。まして、武力(暴力)を伴う強制であれば、当然、社会の安定を欠き、心理的にも安定は望めません。(この項を記述中、ブッシュが会見中、イラク人記者から靴を投げつけられる、象徴的ニュースがありました。)

■ 1993年、パレスティナ問題で、歴史的なオスロ合意が成立し、一時は和平の機運が、大きく前進した事がありました。これは、すぐに破綻しましたが、決定的な対立の中でも、和平を望む人達が、少なからず、双方に存在する事を意味しています。不寛容に対する、寛容の発芽の契機は、こうした人達の希望の中にあると思います。

■ 11月27日に起きた、ムンバイ同時多発テロ事件は、今日まで、事件の背景がハッキリしません。首謀者とされる、イスラーム過激派組織「ラシュカル・タイバ」は、事件への関与を否定し、インド・パキスタン両政府の見解にも相違があり、まだ真相が見えてきません。そこで、連続して投稿したタイトル「ムンバイ同時多発テロ事件」を外すことにしました。この連続投稿は、今回の「中東の歴史・まとめ」で、ひとまず終わりとします。




2008年12月12日

中東の歴史・イスラーム社会

■ 現在、世界のイスラーム人口は約12億人、地球人口の五分の一。イスラーム諸国会議機構の加盟・準加盟国数は60カ国。イスラーム世界は、今もEU・ロシア・アメリカなどでも、地球規模で拡大しています。宗教の普及速度ではイスラームがトップだそうです。ちなみに、意外にもイスラーム人口は、東南アジアが中東を凌いでいます。

■ イスラームの教えは、ユダヤ教・キリスト教成立後の、7世紀始めに成立。預言者ムハンマド(マホメット)がアッラー(唯一絶対の神)の啓示の書(コーラン・クルアーン)を受け、その教えを伝え始めたとされています。(預言者とは、神の言葉を預かる者で、予言者ではない)ユダヤ教・キリスト教・イスラームは共に、唯一の神を信じる一神教で、同地同根の兄弟宗教です。

■ コーランでは、神はそれまでに、何人もの預言者を送り、啓示の書を与えたとされています。その中では、ムーサ(モーゼ)に律法の書(旧約聖書)、イーサ(イエス)に福音の書(新約聖書)を与え、最終的に、最後の預言者であるムハンマドに、アラビア語で書かれたコーラン(最後の教え)を、与えたとされています。つまり、コーランでは、ユダヤ教のモーゼもキリスト教のイエスも、預言者の中の一人なのです。後に、ユダヤ教は、ユダヤ人だけの宗教としたため、普遍性を失い。キリスト教は、イエスを神の子として、神の教えを歪めた。これを正すために、改めて、最後の預言者ムハンマドに、神の啓示が下されたという事になります。

■ イスラーム教徒(ムスリム)は、イスラーム法(シャリーア)に従って、生きる人たちです。イスラーム法は、コーランとムハンマドの言行録(ハディース)を基準として、法学者によって問題の解釈がなされ、規則が決められます。つまり時代の変化に沿って、そのつど、問題の解釈を行うという事で、宗派・法学者により、時に、異なった解釈が出たりします。また、本来イスラーム法は、近代法よりも上位に有ると、考えられています。

■ 井筒俊彦「イスラーム文化」によれば。「イスラーム文化(学問・芸術・政治・法律等人間生活のすべての領域)は、コーランの解釈学的展開の諸相であり」また、「イスラームでは聖俗の区分は無く、人間存在のあらゆる局面(個人的・家庭的・社会的・民族的・国家的)をつうじて、コーランに表れる神の意志を実現するのが、イスラームの宗教生活である。」とあります。つまり、イスラーム教徒にとっては、日常生活のすべて、一生の間を、コーランにてらして生きる、という事のようです。

2008年12月10日

中東の歴史・外交

■ 近代中東の歴史を概観して、見えてくるのは、大国の国益優先の外交と、それに翻弄される民族と国家の姿です。第一次大戦の、三枚舌と言われる、イギリス植民地外交から、東西冷戦をへて、ブッシュ外交に至るまでの、各国の外交には疑問を感じます。では、外交とは何なのか 。

■ 外交の定義。「目的は国益の追求と実現。究極の目標は、その国の理念・イデオロギー・民族のビジョンによって形成される。」つまり「一国の外交は、その国家・民族の、政治の対外的発現であり、それ故に、その国家・民族の固有する、世界観・使命感がイデオロギー的形態を取って、その対外政策と活動の最高の指導原理となるを常とする。」よって、「外交は、その国家・民族が固有する、ビジョン・世界観を形成しているところの、文化的伝統の対外的表現となる。」ついでに、「外交史は、一国がその文化的伝統に基づく、最高理念を追求しようと努力する、歴史過程である。」神川彦松(国際政治学)

■ 外交の定義は、おおよそ、これに尽きるようです。国家間の外交が、国益の追求と実現を前提に、行われるとすれば、衝突も起こります。(国益が一致する友好的外交も、勿論有ります。)こうした場合、通常は国家間で政治的妥協をもって、解決が図られます。しかし、その衝突に武力が伴えば、戦争による解決ということになります。外交は常に、戦争の危機を孕んでいるとも、言えます。

■ 外交は対外的にどうあれ、国内では、例えば、イギリスの三枚舌外交でも、国益とあれば、歓迎され正当化されます。その時の、国のイデオロギー形態によって、外交は決定されるのだから。ところが、国のイデオロギー形態は、時として変わります。アフガニスタンにソ連侵攻の場合、一方的に国益を振りかざし、大国が小国に攻め入る時、国力と武力の差で、当然、大国が有利です。後で、イデオロギー形態が変化した、と言われても、戦場の跡に残されるのは、相手国の悲惨な状況だけでしょう。

■ アメリカは、一時、オサマ・ビン・ラディンが参加した、アフガニスタンの、対ソ連ゲリラ活動を支援したり、イラン・イラク戦争中のサダム・フセインに、武器援助をしたにもかかわらず、後に、タリバン・アフガニスタンを攻撃し、サダム・フセインのイラクを空爆します。この、ご都合主義と思えるアメリカの外交、そして、その度、掲げられる外交理念(民主主義の拡大)とは、いったい何なのか。始めから懸念されていた、戦後統治も出来ぬままに、流血を繰り返し、いずれは放棄撤退する。大国アメリカの国益とは何なのか?

■ イスラーム過激派拡大の底流である、パレスティナ紛争の構造は、単なる国家間紛争ではなく、実際には、イスラエル・アメリカとイスラーム諸国との紛争の、様相を呈しています。世界各地で頻発するイスラーム紛争には、イスラーム諸国(過激派国際テロ集団も含め)は、宗派間に対立があるにしても、揃って敏感に反応します。こうした中、既存の国益優先の外交や、それを基にした国連組織、機能では、充分に対応しきれていないように思います。新たな発想が必要なのかも知れません。

■ この後次回。

2008年12月8日

中東の歴史・2000年以降

■ 2000年以降。各地で激しいテロの応酬が繰り返されます。
《パレスティナ》 2000年パレスティナとイスラエル双方の聖地である、エルサレム(東側・パレスティナ、西側・イスラエル)で、イスラエルの、右翼政党リクードのシャロンが、東側エルサレムに踏み込み挑発、パレスティナ側は反発、暴動が起こります。

■ 2001年シャロン政権が成立。エルサレム全域を、イスラエルの首都とし、イスラエルに帰属させると主張。また、パレスティナ自治政府の、過激派幹部の暗殺を、指令し実行するなど、自治政府との対決姿勢を鮮明にします。パレスティナ側も、過激派ハマスが、インティファーダを再開。さらに自爆テロも頻発。双方共、数百名の死者を出す、テロの応酬が展開されます。

■ こうした中で、2001年アメリカで、9・11同時多発テロが発生。(アルカイダのオサマ・ビン・ラディンの要求は、パレスティナからのイスラエル撤退) アメリカは、対テロ戦争を宣言。この事件を契機に、イスラエルとパレスティナはいったんは停戦。しかし、イスラエルは、アメリカによる、アフガニスタン報復攻撃の機を捕らえ、パレスティナ自治政府を、テロ支援国家だとして、軍事攻撃に出ます。これをアメリカは容認。

■ 2003年アメリカが、中東和平ロードマップを提示。一時、イスラエルは撤退の姿勢を見せます。しかし2004年ガザ地区攻撃、ハマス指導者殺害。また、境界を無視した、分離壁建設を一方的に進めるなど、強硬姿勢を崩しません。一方、2006年アラファト没後の、自治政府議長選挙で、アッバースが議長に、その後の選挙で、ハマスが第一党になりハマス内閣成立。(ハマスはイスラエル承認と思える姿勢を示します。)

■ 2007年以降も、パレスティナ自治区、ヨルダン川西岸、ガザ地区をめぐって抗争は続き、数度かの停戦協定も破られます。そのたびに、双方とも多くの死傷者をだし、混迷状態は今も続いています。

■ 《アフガニスタン》 2001年10月アメリカは、対テロ戦争を宣言。アル・カイダ(オサマ・ビン・ラディン)を匿っているとして、アフガニスタンのタリバンに対し、報復攻撃開始。タリバン政権崩壊。12月カイザル暫定政権発足。2004年10月カイザル正式政権発足。同年タリバン再結成、南部で武装蜂起。現在も、タリバンとの戦闘状態は続いています。

■ 《イラク》 2003年3月アメリカ・イギリス両軍は、イラクが大量破壊兵器を保有しているとして、それを理由に、国連決議が無いまま空爆開始。フセイン政権崩壊。5月戦争終結宣言。2004年イラク暫定政府発足。2006年イラク正式政府発足。しかし、懸念されていた、戦後のイラク統治に失敗。テロを含む戦闘状態は、現在も続いています。

■ 《国際テロ》 2005年ロンドン同時多発テロ発生。犯行声明が欧州の聖戦アル・カイダ組織から出される。2008年ムンバイ同時多発テロ発生。

■ 歴史概観はひとまずここまでにします。


2008年12月5日

中東の歴史・補足

■ 前回まで、パレスティナを中心に、中東の歴史をざっと見てきました。抜けてる所もあるので補足します。第二次大戦後。1948年から1972年まで、四次にわたる中東戦争の背景には、東西冷戦による米・ソの思惑。さらに、産油地帯の特殊性から、諸外国の石油戦略と、石油メジャーの利権も絡んできます。中東戦争には民族・宗教の側面だけでなく、こうした背景が、問題をより複雑にしています。そして、周辺諸国の動向が、その後の中東情勢に、影響を与えていきます。

■ 《イラン》 戦後。一時は石油を国有化するなど、民族主義が台頭。しかし、1953年、欧米諸国と石油資本の支援を受けた、パーレビ2世(国王)は、クーデターにより政権を奪取。独裁体制を敷きます。欧米との連携を深め、近代化を進める一方、言論・思想の自由を抑圧。経済格差や社会構造の歪みを拡大する、専制政治に、国民の不満は高まっていきます。1979年反政府運動に抗しきれず、国王は国外に退去。替わって、宗教運動を通じて、政府を批判し続けていた、ホメイニ師が帰国。イラン・イスラーム革命が成功。イラン・イスラーム共和国が誕生します。

■ 新たに制定された憲法では、イスラーム法学者(宗教指導者)が、司法・行政・立法三権の上に立つ、政治体制となり。ムハンマド(マホメット)の教えに基ずく、イスラーム社会の建設が、国家目標となります。こうした、ホメイニ師の原理主義的方針は、アラブ諸国にも微妙な影響を与えます。

■ 《イラク》 1979年サダム・フセイン大統領就任。1980年イラン・イラク戦争勃発。イラクは発足間もないイランに侵攻します。原因は国境問題でしたが、宗派対立(イラク・スンニ派、イラン・シ-ア派)、民族対立(イラク・アラブ人、イラン・ペルシャ人)、石油問題、クルド人問題等、多岐にわたります。イラン革命の刺激を受け、イラク国内で抑圧されている、シーア派の暴発を防ぐためとも、云われています。アメリカは、イランの原理主義を警戒して、密かに、イラクに武器支援をおこないます。この戦争は1988年、消耗戦の末に停戦します。

■ 1990年イラクは、8年間のイラン・イラク戦争で、疲弊した経済を、クエートの石油で打開しようと、クエートの領有権を主張し侵攻。いずれの国からも支持を得られぬまま、1991年湾岸戦争。国連決議による、多国籍軍の攻撃を受けクエートを撤退。しかし、 サウジアラビアが、多国籍軍の駐留を認め、イスラームの国を攻撃したことが、イスラーム人の激しい反発を招きます。敗戦後クルド人反乱に、化学兵器を用いての徹底弾圧があり、イラクに対し、国連による経済封鎖等、制裁が厳しく科せられることになります。

■ 《アフガニスタン》 1979年親ソ政権支援のため、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻(アメリカ寄りの隣国パキスタンを牽制する目的)。これに対し、イスラーム義勇兵が抵抗。これを祖国解放闘争として、アメリカが支援に動きます。この義勇兵の一人が、サウジアラビアから、ゲリラ活動に参加した、オサマ・ビン・ラディン。1989年ソ連は、10年に及ぶ、アフガニスタン制圧に失敗し撤退(同年ソ連崩壊)。アフガニスタンは、多数の死者と難民を出し荒廃。国内は内乱状態になります。

■ 1996年パキスタンに支援された、神学者ムハンマド・オマルを中心とする、タリバン(神学校生)が、首都カブールを制圧。暫定政権を樹立。タリバン政権は、厳格なイスラーム原理主義国家の、建設を進めて行きます。この間、アメリカ・イギリス連合軍は、北部反タリバン軍閥を支援、タリバンに圧力を掛け続けます。1996年オサマ・ビン・ラディンは、アフガニスタンに再入国、アル・カイダを組織し、国際テロ活動を開始。1998年パレスティナ問題の解決、イラク制裁の解除を求めて、「イスラーム教徒は、アメリカ国民と同盟者の、殺害を義務とする」との声明を出す。

■ この後次回。

2008年12月3日

中東の歴史・第二次大戦後

■ 前回、パレスティナ問題の発端までを書きましたが、それは、数千年来、住み慣れた土地と住民を、大国が勝手な思惑で、国境の線引をし、翻弄した姿です。その住み分けを強要した強引さは、地図上の線によく表現されています。

■ 東西冷戦が始まる中、パレスティナの土地の半分以上を占めて、建国されたイスラエルに対し、追われたパレスティナ人とアラブ諸国は、アラブ連合軍を組織して、1948年中東戦争(第一次)を開始します。しかし1956年(二次)1967年(三次)ここまではアラブ側全敗。圧倒的に勝利したイスラエルは、パレスティナの全土とシリアのゴラン高原、エジプト・シナイ半島、ガザ地区までを占領。占領地への入植も始まります。1969年アラファトがPLO議長就任。1973年(四次)互角の戦い。イスラエル不利と見てアメリカが緊急武器援助。

■ そして1973年、石油輸出機構(OPEC)による原油価格引き上げ、アラブ石油輸出機構(OAPEC)のアメリカなど、イスラエル支援国への禁輸、アラブ諸国は石油を武器に世界に圧力をかけます。この第一次オイルショックを契機に、アメリカから、漸く中東和平の動きが活発になり始めます。

■ しかし、アラブ激動の1979年。ホメイニ師のイラン革命、エジプト・イスラエル平和条約調印、イラク、サダム・フセインが大統領に、ソ連アフガニスタンに侵攻、と続きます。さらに1980年イラン・イラク戦争勃発。一度は膨らみかけた和平の機運(エジプト・イスラエル平和条約)も、合意を得ぬまま先走った、エジプトがアラブ内で孤立、1981年条約の調印をしたエジプト・サダト大統領の暗殺という、悲劇に見舞われしぼみます。

■ 一方、イスラエル占領地区では、1987年からインティファーダ(民衆蜂起)が始まり。投石で抵抗するパレスティナ人、彼らに向けて発砲するイスラエル兵。多数の死傷者を出し、世界の同情がパレスティナに集まります。こうした中で、1988年ハマス(イスラーム抵抗運動)が結成されます。(2000年以降ハマスは武装闘争、自爆テロなど過激な行動に向かいます。)

■ 冷戦終結後。1990年 イラク、クエート侵攻。1991年湾岸戦争。1993年歴史的なオスロ合意成立により、パレスティナ暫定自治協定(PLO議長・アラファトとイスラエル・ラビン首相調印)。合意内容は、PLOのイスラエルに対する敵対行為放棄、イスラエル軍の占領地からの順次撤退、これらが双方守られれば、パレスティナ人の自治区を認め、1996年にパレスティナが独立するという画期的なものです。

■ ところが、1995年オスロ合意に反対するユダヤ人学生が、ラビン首相暗殺。これ以降、イスラエル国内の和平に向かう動きは中断。2001年シャロン首相就任後、逆に入植地拡大、エルサレムのイスラエル帰属など、強硬論が噴出台頭。これに対し、パレスティナ側は猛反発、インティファーダの再開、激しいテロの応酬が始まり、中東は一触即発の状態になります。

■ こうした中、2001年9・11同時多発テロが発生。この後次回。


2008年12月1日

中東の歴史・第二次大戦まで

■ ムンバイ同時多発テロ事件。イスラーム過激派による無差別テロのようです。エスカレートするテロ、インドとパキスタンとの間の緊張が高まっています。インドの近代史をざっと見ると、1600年の東インド会社設立以降、徐々に殖民地化を進めてきたイギリスは、1857年セポイの乱(独立運動)を徹底制圧してムガール帝国を滅ぼします。翌年イギリスは直接統治、つまり植民地とします。インドにおける宗教対立は古来から存在していました。しかし、後に起こる激しい宗教対立を決定づけた要因のひとつは、この植民地経営に用いられた、分割統治(人種・宗教などの差異を利用して分割、反目させ、長期統治を目指す政治手法)にあるように思えます。この政治手法は、歴史上各地で度々登場します。インドは1950年、英連邦インド共和国として独立しますが、その前後の宗教対立、パキスタン分離独立(1956年)にもこの手法の跡を見る事が出来ます。

■ 今回の事件、9・11、ロンドン爆破事件など、イスラーム過激派の行動の背景に、根深い宗教対立があるにしても、なぜ、これほどまでに激しい憎悪、不寛容を生むのか。(今回の事件ではカシミール領土問題など他の問題がどう絡んでいるのか現時点では解りません)ただイスラーム過激派の行動ををたどると、結局は底流にあるパレスティナ問題に行き着きます。現状を考えてみるうえで必要と思われるので、ややこしくて長いですが暫く我慢してください。

■ 1914年第一次大戦勃発。英・仏・露連合軍は、敵対するドイツを支援する、オスマン帝国の支配下にあるアラブ民族に対し、アラブ諸国の独立承認を担保に反乱を要請します。反乱は成功、この時反乱軍に加わり活躍したのが「アラビアのローレンス」。ところがその裏でイギリスは、フランスと大戦後のオスマン帝国支配地(パレスティナ)の分割管理の密約を結び。さらに上記の分割統治を図るための、1917年ユダヤ・シオニスト連盟に対しパレスティナに「NationalHome」(国民地区)設立支持の書簡を与えます。これを国家建設承認と受け取ったユダヤ人は、大挙してパレスティナに向かいます。

■ 1918年第一次大戦後、イギリスはフランスとの密約を優先し、アラブ人との約束を反故にします。怒ったアラブ側は反乱に出ますがあえなく鎮圧されてしまいます。それでも、政情の不安を感じたイギリスは、先手を打ち妥協、シリアからイギリス委託統治のレバノン・トランスヨルダン・パレスティナを分割します。しかし、イギリスによる狡猾で場当たり的な外交は、アラブ人とユダヤ人との確執をパレスティナにもたらし、これ以降、解決困難な問題地域となっていきます。これがパレスティナ問題の発端。

■ 第二次大戦後。ユダヤ人虐殺(ホロコースト)に対する世界の同情がユダヤ人に集まる中、ユダヤ人のパレスティナ移住が急増、財力にまかせた土地の買収が急拡大します。これによりアラブ人・ユダヤ人との軋轢がより深まり混乱、イギリスはこの時点でパレスティナを放棄撤退。1947年国連でパレスティナ分割案決議(ユダヤ国家56%、アラブ国家43%、エルサレム国際管理地区1%)が採択され。1948年米・露の承認を受けイスラエル独立宣言。一方、アラブ諸国では、欧米に強制された分割に対し反対運動が激化、パレスティナには難民問題が発生します。

■ ここからは戦争が幾度となく繰り返されます。それについては次回に。