2008年12月3日

中東の歴史・第二次大戦後

■ 前回、パレスティナ問題の発端までを書きましたが、それは、数千年来、住み慣れた土地と住民を、大国が勝手な思惑で、国境の線引をし、翻弄した姿です。その住み分けを強要した強引さは、地図上の線によく表現されています。

■ 東西冷戦が始まる中、パレスティナの土地の半分以上を占めて、建国されたイスラエルに対し、追われたパレスティナ人とアラブ諸国は、アラブ連合軍を組織して、1948年中東戦争(第一次)を開始します。しかし1956年(二次)1967年(三次)ここまではアラブ側全敗。圧倒的に勝利したイスラエルは、パレスティナの全土とシリアのゴラン高原、エジプト・シナイ半島、ガザ地区までを占領。占領地への入植も始まります。1969年アラファトがPLO議長就任。1973年(四次)互角の戦い。イスラエル不利と見てアメリカが緊急武器援助。

■ そして1973年、石油輸出機構(OPEC)による原油価格引き上げ、アラブ石油輸出機構(OAPEC)のアメリカなど、イスラエル支援国への禁輸、アラブ諸国は石油を武器に世界に圧力をかけます。この第一次オイルショックを契機に、アメリカから、漸く中東和平の動きが活発になり始めます。

■ しかし、アラブ激動の1979年。ホメイニ師のイラン革命、エジプト・イスラエル平和条約調印、イラク、サダム・フセインが大統領に、ソ連アフガニスタンに侵攻、と続きます。さらに1980年イラン・イラク戦争勃発。一度は膨らみかけた和平の機運(エジプト・イスラエル平和条約)も、合意を得ぬまま先走った、エジプトがアラブ内で孤立、1981年条約の調印をしたエジプト・サダト大統領の暗殺という、悲劇に見舞われしぼみます。

■ 一方、イスラエル占領地区では、1987年からインティファーダ(民衆蜂起)が始まり。投石で抵抗するパレスティナ人、彼らに向けて発砲するイスラエル兵。多数の死傷者を出し、世界の同情がパレスティナに集まります。こうした中で、1988年ハマス(イスラーム抵抗運動)が結成されます。(2000年以降ハマスは武装闘争、自爆テロなど過激な行動に向かいます。)

■ 冷戦終結後。1990年 イラク、クエート侵攻。1991年湾岸戦争。1993年歴史的なオスロ合意成立により、パレスティナ暫定自治協定(PLO議長・アラファトとイスラエル・ラビン首相調印)。合意内容は、PLOのイスラエルに対する敵対行為放棄、イスラエル軍の占領地からの順次撤退、これらが双方守られれば、パレスティナ人の自治区を認め、1996年にパレスティナが独立するという画期的なものです。

■ ところが、1995年オスロ合意に反対するユダヤ人学生が、ラビン首相暗殺。これ以降、イスラエル国内の和平に向かう動きは中断。2001年シャロン首相就任後、逆に入植地拡大、エルサレムのイスラエル帰属など、強硬論が噴出台頭。これに対し、パレスティナ側は猛反発、インティファーダの再開、激しいテロの応酬が始まり、中東は一触即発の状態になります。

■ こうした中、2001年9・11同時多発テロが発生。この後次回。


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