2008年12月5日

中東の歴史・補足

■ 前回まで、パレスティナを中心に、中東の歴史をざっと見てきました。抜けてる所もあるので補足します。第二次大戦後。1948年から1972年まで、四次にわたる中東戦争の背景には、東西冷戦による米・ソの思惑。さらに、産油地帯の特殊性から、諸外国の石油戦略と、石油メジャーの利権も絡んできます。中東戦争には民族・宗教の側面だけでなく、こうした背景が、問題をより複雑にしています。そして、周辺諸国の動向が、その後の中東情勢に、影響を与えていきます。

■ 《イラン》 戦後。一時は石油を国有化するなど、民族主義が台頭。しかし、1953年、欧米諸国と石油資本の支援を受けた、パーレビ2世(国王)は、クーデターにより政権を奪取。独裁体制を敷きます。欧米との連携を深め、近代化を進める一方、言論・思想の自由を抑圧。経済格差や社会構造の歪みを拡大する、専制政治に、国民の不満は高まっていきます。1979年反政府運動に抗しきれず、国王は国外に退去。替わって、宗教運動を通じて、政府を批判し続けていた、ホメイニ師が帰国。イラン・イスラーム革命が成功。イラン・イスラーム共和国が誕生します。

■ 新たに制定された憲法では、イスラーム法学者(宗教指導者)が、司法・行政・立法三権の上に立つ、政治体制となり。ムハンマド(マホメット)の教えに基ずく、イスラーム社会の建設が、国家目標となります。こうした、ホメイニ師の原理主義的方針は、アラブ諸国にも微妙な影響を与えます。

■ 《イラク》 1979年サダム・フセイン大統領就任。1980年イラン・イラク戦争勃発。イラクは発足間もないイランに侵攻します。原因は国境問題でしたが、宗派対立(イラク・スンニ派、イラン・シ-ア派)、民族対立(イラク・アラブ人、イラン・ペルシャ人)、石油問題、クルド人問題等、多岐にわたります。イラン革命の刺激を受け、イラク国内で抑圧されている、シーア派の暴発を防ぐためとも、云われています。アメリカは、イランの原理主義を警戒して、密かに、イラクに武器支援をおこないます。この戦争は1988年、消耗戦の末に停戦します。

■ 1990年イラクは、8年間のイラン・イラク戦争で、疲弊した経済を、クエートの石油で打開しようと、クエートの領有権を主張し侵攻。いずれの国からも支持を得られぬまま、1991年湾岸戦争。国連決議による、多国籍軍の攻撃を受けクエートを撤退。しかし、 サウジアラビアが、多国籍軍の駐留を認め、イスラームの国を攻撃したことが、イスラーム人の激しい反発を招きます。敗戦後クルド人反乱に、化学兵器を用いての徹底弾圧があり、イラクに対し、国連による経済封鎖等、制裁が厳しく科せられることになります。

■ 《アフガニスタン》 1979年親ソ政権支援のため、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻(アメリカ寄りの隣国パキスタンを牽制する目的)。これに対し、イスラーム義勇兵が抵抗。これを祖国解放闘争として、アメリカが支援に動きます。この義勇兵の一人が、サウジアラビアから、ゲリラ活動に参加した、オサマ・ビン・ラディン。1989年ソ連は、10年に及ぶ、アフガニスタン制圧に失敗し撤退(同年ソ連崩壊)。アフガニスタンは、多数の死者と難民を出し荒廃。国内は内乱状態になります。

■ 1996年パキスタンに支援された、神学者ムハンマド・オマルを中心とする、タリバン(神学校生)が、首都カブールを制圧。暫定政権を樹立。タリバン政権は、厳格なイスラーム原理主義国家の、建設を進めて行きます。この間、アメリカ・イギリス連合軍は、北部反タリバン軍閥を支援、タリバンに圧力を掛け続けます。1996年オサマ・ビン・ラディンは、アフガニスタンに再入国、アル・カイダを組織し、国際テロ活動を開始。1998年パレスティナ問題の解決、イラク制裁の解除を求めて、「イスラーム教徒は、アメリカ国民と同盟者の、殺害を義務とする」との声明を出す。

■ この後次回。

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