2008年12月1日

中東の歴史・第二次大戦まで

■ ムンバイ同時多発テロ事件。イスラーム過激派による無差別テロのようです。エスカレートするテロ、インドとパキスタンとの間の緊張が高まっています。インドの近代史をざっと見ると、1600年の東インド会社設立以降、徐々に殖民地化を進めてきたイギリスは、1857年セポイの乱(独立運動)を徹底制圧してムガール帝国を滅ぼします。翌年イギリスは直接統治、つまり植民地とします。インドにおける宗教対立は古来から存在していました。しかし、後に起こる激しい宗教対立を決定づけた要因のひとつは、この植民地経営に用いられた、分割統治(人種・宗教などの差異を利用して分割、反目させ、長期統治を目指す政治手法)にあるように思えます。この政治手法は、歴史上各地で度々登場します。インドは1950年、英連邦インド共和国として独立しますが、その前後の宗教対立、パキスタン分離独立(1956年)にもこの手法の跡を見る事が出来ます。

■ 今回の事件、9・11、ロンドン爆破事件など、イスラーム過激派の行動の背景に、根深い宗教対立があるにしても、なぜ、これほどまでに激しい憎悪、不寛容を生むのか。(今回の事件ではカシミール領土問題など他の問題がどう絡んでいるのか現時点では解りません)ただイスラーム過激派の行動ををたどると、結局は底流にあるパレスティナ問題に行き着きます。現状を考えてみるうえで必要と思われるので、ややこしくて長いですが暫く我慢してください。

■ 1914年第一次大戦勃発。英・仏・露連合軍は、敵対するドイツを支援する、オスマン帝国の支配下にあるアラブ民族に対し、アラブ諸国の独立承認を担保に反乱を要請します。反乱は成功、この時反乱軍に加わり活躍したのが「アラビアのローレンス」。ところがその裏でイギリスは、フランスと大戦後のオスマン帝国支配地(パレスティナ)の分割管理の密約を結び。さらに上記の分割統治を図るための、1917年ユダヤ・シオニスト連盟に対しパレスティナに「NationalHome」(国民地区)設立支持の書簡を与えます。これを国家建設承認と受け取ったユダヤ人は、大挙してパレスティナに向かいます。

■ 1918年第一次大戦後、イギリスはフランスとの密約を優先し、アラブ人との約束を反故にします。怒ったアラブ側は反乱に出ますがあえなく鎮圧されてしまいます。それでも、政情の不安を感じたイギリスは、先手を打ち妥協、シリアからイギリス委託統治のレバノン・トランスヨルダン・パレスティナを分割します。しかし、イギリスによる狡猾で場当たり的な外交は、アラブ人とユダヤ人との確執をパレスティナにもたらし、これ以降、解決困難な問題地域となっていきます。これがパレスティナ問題の発端。

■ 第二次大戦後。ユダヤ人虐殺(ホロコースト)に対する世界の同情がユダヤ人に集まる中、ユダヤ人のパレスティナ移住が急増、財力にまかせた土地の買収が急拡大します。これによりアラブ人・ユダヤ人との軋轢がより深まり混乱、イギリスはこの時点でパレスティナを放棄撤退。1947年国連でパレスティナ分割案決議(ユダヤ国家56%、アラブ国家43%、エルサレム国際管理地区1%)が採択され。1948年米・露の承認を受けイスラエル独立宣言。一方、アラブ諸国では、欧米に強制された分割に対し反対運動が激化、パレスティナには難民問題が発生します。

■ ここからは戦争が幾度となく繰り返されます。それについては次回に。

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