2008年10月23日

漱石とウーロン茶

■ 漱石の『明暗』(大正5年・1916)に、主人公の一人津田が、医者に注意されていた入院前の食事を、急いでとる場面がでてきます。津田本人が買ってきた包み紙を、お延(妻)が開けると、紅茶の缶とパン、バターが現れます。ところが、次のように文章がつづきます。「やがて好い香のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。」 この文章について、「これって漱石先生少し変じゃないですか!」 と、疑問を投げかける人もいるようです。確かに字面からすると少し変。

■ この頃のウーロン茶事情。ウーロン茶の故郷は中国福建省だそうです。しかし当時、日本統治下の台湾(明治28年・1895-1945)では、福建からの茶樹の移植も進み、すでに明治末には、日本の国策に沿って台湾独自の生産がなされ、イギリス・アメリカ・ドイツ等への輸出も盛んに行われていたようです。ちなみに、第4代総督・児玉源太郎、民生長官・後藤新平時代(明治31-39年・1898-1906)製糖業を指導した新渡戸稲造等以来つづく、日本の国策に基づく地場産業の日本化は、台湾を大きく変えたようです。

■ 始めの疑問へ。『明暗』連載当時、台湾は日本の統治下、輸出されたウーロン茶の一部が、当然日本にも入って来ていた筈です。このウーロン茶(白毫烏龍茶)は、発酵度が高く紅茶に近い青茶で、フルーティーな香りを持つ独特なお茶として、好評を博していました。そして、紅茶の本場イギリスでは、特別にこのお茶をオリエンタル・ビュウティー(東方美人)と呼び、珍重していたそうです。つまり、ウーロン茶も紅茶のひとつとして、飲まれていたのではないでしょうか。結果、上の文章にはさしたる誤りは無く、英国留学経験のある漱石先生は、何の違和感も感じなかったのだと思います。

■ 漱石は『明暗』未完のまま、その年12月9日に亡くなりました。 

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